ゆううつなにっき

どうしてこんなに悲しいんだろう。

とか言うと「なに悲劇のヒロインぶってんだよ」って後ろから声が聞こえる。でも振り向いてもそこには誰もいなかった。するとまた後ろから「そういう時もあるよ。仕方ないじゃん」って誰かが言う。全部誰かに言われそうな言葉で、誰かに言ってほしい言葉なんだろう。

 

どんなに検査をしても、どんなにいろんな人の話を聞いても、私はまだなにも答えを見つけ出せずにいて、だからどこにも歩けずに立ち止まっているんだと思う。なんでもいいからやってみろっていう言葉を信じてなにか始めても、結局飽きてしまう未来しか想像できなくて、そんなことばっか考えてるから続くものも続かないのかもしれない。自分が分からない。

 

将来とか未来とか夢とか希望とか、そういうものは自分は一生手に入れることができないんじゃないかという気さえしてくる。私は私にしかなれないし、今の私は今以上の私になれる気がしない。どうしてみんな生きているんだろう。何が楽しくて生きているんだろう。日々の生活にどれだけ満足しているのだろう。どうしてそんなに頑張って働けるの。

 

いいから働けという言葉も理解できるし、結局今なにもしていない状況のせいで落ち込んでいるのは多少なりともあると思うし、あたまでっかちというかひたすら解決しない問題に悩んでいるのも思い返せばいつものことだったりして。動けばいいというのは分かるんだけど。分かるんだけど。どこに行く気力もなくなってしまった気がするんだ。

 

これだけの人間がいれば社会に適応できない人間がいてもおかしくないじゃないか。開き直って元気になれるなら開き直るべきで、でもここまできても私は全然元気じゃないから、きっと別の解決法を探らなきゃいけないんだろうなって。社会適応というと幅が広すぎるな。生に対しての貪欲さのなさが根底にある気がするけど、どうだろう。生きていることは楽しいと思う。人がいて、動物がいて、植物がいて、良くも悪くも日々変化していて、心が弾むことが起きるから。楽しいはずなのに。

 

みんなが走っている生きるためのレールがどうにも自分には合ってない気がして、それでも頑張って走ろうとしたんだけど初っ端でつまずいて、なんとか横道を見つけて追いつこうとしてるんだけど、ふとどうして自分は走ってるんだろうとか考えちゃって。「この素晴らしい場所を世界中の人に知ってほしい」と一人旅立った友人の話を聞きながら、自分もそんな一生をかけて打ち込めるようなものに出会えたら、幸せになれたんだろうかとか思った。

 

まさかこんなところでつまづくとは思わなかったんだ。嘆いてもしょうがないのだけど、「普通」になれない情けなさと「普通」じゃない誇らしさに揺れている。そしてそんなこととは別に、ひたすら悲しさに包まれている。うつかよ。

 

「仕事辞めたい」ってみんな言ってる。辞めればいいじゃん。さっさと辞めて新しい仕事見つければいいじゃん。私は仕事をする気力もないよ。続ける気力もないよ。みんなよく続けてるなと思うよ。甘ちゃんでもなんでもいいよ。ただの情緒不安定のニートだよ。

 

知能検査の結果が最高で121を叩きだして、まぁちょっとは地頭がいいらしいと少し嬉しかったのだけど。それが裏目に出てしまったのは想定内とはいえ無理解の現実を叩きつけられたようで落ち込んだ。診察はお金もかかる。薬もお金がかかる。働けないって言ってんだろ。そんな金ないってば。

 

病気だという診断がないなら元気じゃないかっていうのおかしいと思うんだ。命題の逆も裏も真とは限らないのだから。体はたしかに動くけど、手も足も動かせるけど、ただ動くだけじゃ生きていけないって知らないんでしょうね。

 

分かってる。こんな自傷はいつものことで、自分がどうしても惨めで生きることがとてつもなくプレッシャーで、生産性のない自分は生きていてはいけないと強迫観念に襲われて、それでも死にたくないから、生きていたいから、「元気そうに見えるかもしれないけどこんなに苦しんでるんです、お願いだから殺さないで」って言い訳をしていること。

 

どうして人は生きているんだろう。どうしてここまでの知能を獲得してしまったのだろう。なぜ社会不適合者に選ばれてしまったのだろう。病気と一緒で、誰も悪くなくて、でも苦しくて仕方がないこれをなんと言えばいい。この生きづらさとどう生きていけばいい。

 

うつだと言うのは簡単で、うつの薬をもらうのも簡単で、でも薬にかかるお金を稼ぐのはとても難しくて、そしてそのうつの薬で心を治すことはもっと難しい。

 

世の中にはいろんな人がいる。私はその中の一人に入っているんだろうか。認めてほしい一方でひっそりと消えたい気持ちに駆られて、どこにも行けない心が涙をこぼす。

 

そんな5月病の憂鬱。