春が来る


もう2年も経ってしまった。何も見つけられないまま、何も得られた気がしないまま、就職先も見つからず、とにかく大学を卒業することだけを考えて、そうしてなんとか迎えることができた、卒業証書をもらったあの日から。

 

朝、生温い空気が否応なしに部屋を満たしていることに気付いた。春の湿った空気はずっとカラカラだった部屋を、たった半日で潤した。春特有の、焦りにも似たにおいを漂わせながら。

 

生きるのがつらくて、消えたくて、どこにも居場所がなくて、一人で、さびしくて、こわくて、自尊心と自己肯定感は不安で押しつぶされて跡形もなく消え去って、それでもほんの一抹の、生きて輝きたいという気持ちが、死んだように生きる私の原動力だったように思う。ちゃんと振り返ればきっとそれなりに頑張って生きていたと思うし、できる範囲で働いてたと思うし、どんなに苦しくても死なずにいた証左が今の自分で、きっと悪いことやつらいこともたくさんあったけど、がんばっていた自分もちゃんとそこにいたんだと思うんだけど、漠然と思い返すと暗闇の中に取り残された孤独な自分しか浮かばない。どうして。

 

いつから、とはっきり言うのは難しいけれど、今まで散々理想を押し付けては罵倒を繰り返していた母が最近は何も言ってこない。とても相性のいいバイト先を見つけたのが11月で、そこから週2程度で働き始め、今は5時間を週3日で働いている。家でゲームをしているとたいてい小言を言われていたけれど、今は特に言われない。ゲーム以外にも趣味や娯楽が増えたから、傍目から見たときのニート感が減った結果かもしれない。まぁ、どうでもいいけど。

 

働くのが楽しい。職場のお姉さんが優しい。フランチャイズの店で、店長は細かいことを気にしない。のびのびと出来る環境がとても心地良い。自分が受容されているのを感じる。これまでのアルバイトでは週2日で4時間も働けばいい方だった自分が、毎週3日で5時間も働いている。天職を見つけたような気分だった。でも、やっぱり週5日で働こうとは思えないし、1日に8時間も働きたくない。

 

もう、根本的に、一般的なその他大勢の人と私は違うのだ、と。薄々気付いてはいたけれど、はっきりと悟った。抑うつを引きずっているわけではなく、生来の性質として、目標を見出しづらく、曖昧な場所で全力を出すことができない。やりたくもないことをなあなあで我慢してやり続けるということが不可能。刹那主義よろしく、宵越しの金は持たねえと言わんばかりの将来不透明度500%。

 

経済弱者でいることのいたたまれなさ。周りの友人と同じスタートラインにさえ立てていなかった自分の情けなさ。不甲斐なさ。どれだけ文句を言っても、言われても、「親の金で生きてるんでしょ」という一言でガラガラと崩れてしまう足場のもろさ。

 

なんの因果か、好きなものを語るよりも不満を語るほうが饒舌で流暢になってしまう。誰もしあわせにならない。不幸自慢が得意なんて、しかも言うほど悲劇でもないこんな狭域の不幸と愚痴が趣味なんて、惨めすぎるだろ。

 

人恋しさに襲われる寒さはとうに和らいで、もはや熱気さえ感じてしまうほど日差しがまぶしい一日だった。桜が咲いた、咲かない、もう少し、まだかかりそう、なんて。世の中は春風に浮き足立って、新たな年度、新たな元号、新たに始まる何かに、期待をして、胸を膨らませて、きっと楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことがたくさん起こると根拠のない自信を持って、笑ってる。これから何度の春を見送れば、自分もそっち側の人間になれるだろう。

 

植物には頂端分裂組織というものがあって、茎頂と根端にあるその組織では細胞がそれはそれはもう、たくさん、増殖する。花芽形成とか、もう忘れてしまったけれど、桜のつぼみを見ると、それを思いだしてぞわぞわする。

 

理想と現実の乖離があることは分かっていたけれど、自分が想像していた以上に現実を受け入れるのは難しいことだと痛感した。今だって、欲を言えば普通にフルタイムで働いて一人暮らしをして、親から干渉を受けずに気楽に生きていたかった。それがこんなにも、自分にとっては難しいだなんて思ってもいなかったのだから。

 

人生は選択の連続で、選択した世界と選択しなかった世界は無限の組み合わせで存在する。何を選ぶかなんて、そのときの自分次第だ。たとえ選べなかったとしても、バッドエンドが決定するわけではない。この世界はゲームじゃない。正解なんて存在しない。正しく生きたいけど、結局自分で正しいと思ったことしか正しくない。絶対悪なんて、本当はないのかもしれない。前にも同じことを言ったな。

 

しあわせになりたい。不幸になりたくない。なにがしあわせか分からない。生きていることがしあわせとは限らない。よね?

 

最近ずっと調子がよくて、しあわせだなって思ってたんだけど、自分の中にいるネガティブが久しぶりに目を覚まして、微笑んでる。やぁ、おはよう。

 

ADHDの診断も、ストラテラも、抗不安薬も、私の人生にたいして役に立たなかった。性質はそう簡単に変わらないし、変えようとも思えなくて、それよりももうどうしようもないと、諦めた方がよっぽど楽だった。薬との相性が悪かった。そうだ。どうしようもない。

 

いくら元気になってきたとは言え、完全にポジティブな人間になれるわけではない。勘違いしてはいけない。そもそもそんなこと望んでない。私は、どう足掻いても私なのだから。私が私でなくなったら、それはもう私じゃない。私以外私じゃないの。ってさ。

 

髪を染めた。金髪になった。トランプや、高須院長や、カズレーザーのような、明るい明るい金髪。眉毛は黒いし、おそらく似合ってないと思うけど。でも、一皮剥けたような気がして嬉しかった。自分は周りとは違うんだと、わざわざ言わなくても一目見て分かってもらえると思うととても気楽だ。もう我慢しなくていいんだ。そんな解放感の方が大きくて、恥ずかしさはあまり感じなかった。そもそも自分が周りからどう見えるかなんて、ずっと鏡でも持ってなきゃ分からない。金髪は目立つけど、視界に金髪の自分はいない。それくらいがちょうどいいだろ?

 

新たな出会いを心が求めてる。卒業式、入学式、クラス替え。春の香りを覚えてる。まるで前世の記憶みたいだ。

 

過去も未来も失う一方ではあるけれど、それでも少しは、自分の人生を歩めるようになったかな。生きるのが、ちょっとは楽になったかい?